「二階から目薬」

日常の不思議

「ねえ悠。“二階から目薬”って、挑戦する人を笑いすぎだと思わない?」

 放課後、春は急にそんなことを言った。

「急だな。あと、ことわざに怒るな」

「でもさ、“そんなの無理だよ”って意味で使うじゃん?」

「まあ、だいたいそうだな」

 春は歩道橋の階段を上りながら、やたら真剣な顔をした。

「私はね、二階から目薬しようとした人、かなり好き」

「変人への解像度が高いな」

「だって、“もしかしたら届くかも”って思ったんだよ?」

「普通は途中で“無理だな”って気づくんだよ」

「でも、やったんだよ?」

 春はそこで立ち止まり、手すりの向こうを見た。

 夕方の住宅街はオレンジ色で、遠くの洗濯物が少し揺れていた。

「悠」

「なんだよ」

「人類って、最初から“無理”って分かってたら、飛行機とか作ってないと思う」

「二階から目薬と飛行機を同列にするな」

「挑戦という意味では近いよ」

「規模が違いすぎる」

 春は「ふむ」と頷いた。

「じゃあ、“小規模飛行機”」

「余計分からなくなった」

 こいつの会話は、たまに地図なしで海外に行く感じがする。

 方向は分からないのに、なぜか迷ってる気がしない。

「でもさあ」

 春はまた歩き始めた。

「“無理そう”って、ちょっとワクワクしない?」

「しない」

「えー。私はする」

「お前はジェットコースター見ても“落ちるの楽しそう!”とか言うタイプだからな」

「実際、楽しいし」

「落ちてるんだぞ」

「でも、“落ちる”って普段できないよ?」

「言い方でポジティブに変換するな」

 春は少し笑った。

「たぶんね。みんな、“失敗したこと”を恥ずかしいって思いすぎなんだよ」

「まあ、分からなくはないけど」

「でも、“二階から目薬しようとした人”って、少なくとも一回は“いける!”って思ったんだよ?」

「その自信はどこから来たんだ」

「未来への期待」

「言い換えれば見通しの甘さだろ」

「悠は厳しいなあ」

「現実的と言え」

 春は急に僕の前に立った。

「じゃあ問題です」

「嫌な予感しかしない」

「もし、“絶対届かない目薬”と、“たぶん届かないけど挑戦する目薬”なら、どっちが人間っぽいでしょう」

「なんだその哲学授業」

「ほら早く」

「……後者」

「正解です」

「なんでちょっと嬉しそうなんだよ」

「悠、人間だったから」

「最低限な」

 春は満足そうに笑った。

 たぶんこいつは、成功した人より、“やってみた人”の方が好きなんだろう。

 結果より、“届くかも”と思った瞬間を大事にしてる。

 だから、変なことばっかり言う。

 でも。

 そういう考え方を聞くと、少しだけ世界が柔らかく見える時がある。

「……ちなみに」

 僕は歩道橋を下りながら聞いた。

「春なら、二階から目薬やるのか?」

「やる」

「即答かよ」

「あと、たぶん一回じゃ諦めない」

「迷惑な研究者だな」

「でもね」

 春は得意げに指を立てた。

「もし成功したら、“世界初”だよ?」

「その頃には目薬まみれになってると思うけどな」

「挑戦の跡ってこと?」

「ただの被害だよ」

 すると春は、なぜか少し嬉しそうに笑った。

「悠って、“無理だよ”って言いながら、ちゃんと最後まで付き合ってくれるよね」

「……帰り道が一緒だからな」

「ふふ。じゃあ将来、私が三階から目薬する時もよろしく」

「悪化してるじゃねえか」

「人類の進歩だよ」

「方向がおかしいんだよ、お前の進歩は」

 春は笑いながら、夕焼けの坂道を駆け下りていった。

 たぶん明日には、“四階からティーバッグ”とか言い始める。

 意味は分からない。

 でも少しだけ、楽しみだった。

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