「悠。たぶん今日、日本で一番“ふわふわ”してるの、あのパンだよ」
登校中、春が唐突に言った。
朝の商店街だった。
パン屋の前を通るたびに、焼きたての匂いがふわっと流れてくる。
春はその匂いを吸い込みながら、真顔でうなずいた。
「“ふわふわ”って、すごい言葉だよね」
「急にどうした」
「だって、“ふわふわ”って二回言わないと成立しないじゃん」
「一回でも意味は通じるだろ」
「いや、“ふわ”だと途中で風に飛ばされる感じする」
「知らない感覚だな」
春はパン屋を見つめたまま続けた。
「オノマトペって、人生の誤魔化しだと思うんだよね」
「朝から結構失礼なこと言ったな」
「だってさ。“キラキラ”とか“ワクワク”って、意味わからないのに、なんかわかるじゃん」
「まあ、感覚で伝わる言葉だからな」
「すごいよね。“ワクワク”って、漢字にした瞬間ちょっと負けるもん」
「負ける?」
「“私は現在、期待感により心拍数が上昇しています”って言われても、ワクワクしない」
「それはたしかに」
春は満足そうに頷いた。
「つまり人類は、“説明できない感情”を二文字で押し切ってる」
「雑なまとめ方するな」
信号が赤になった。
二人は横断歩道の前で止まる。
春はふと、道路脇の工事現場を見た。
ガガガガガ、とドリルの音が響いている。
「ほら。“ガガガガ”もそう」
「いや、あれは実際そういう音だろ」
「でも文字にした瞬間、ちょっと可愛くなるじゃん」
「工事現場に“可愛い”を見出すな」
「“騒音”って書くと怒られそうだけど、“ガガガガ”って書くと許されそう」
「たぶん許されない」
春は少し考えてから、急に立ち止まった。
「悠って、“しーん”って得意そうだよね」
「どういう意味だ」
「静かな空間に自然に馴染めそう」
「褒めてるのか?」
「私は無理。“しーん”の中にいると、“わーっ”ってしたくなる」
「幼稚園児か」
「たぶん“しーん”って、人間にとって圧なんだよ」
「初めて聞いた説だな」
「だからみんな、咳払いとかするじゃん。“ゴホン”って」
「あー……まあ、静かすぎると何か音出したくなる時はあるな」
「ほら! オノマトペが空気を救ってる!」
「そんな壮大な話になる?」
信号が青になった。
二人で歩き出す。
春は横断歩道の白線だけを踏みながら、また何か思いついた顔をした。
「でも一番すごいオノマトペって、“キュン”だと思う」
「急に方向変わったな」
「だって“キュン”って何の音?」
「知らん」
「心だよ」
「心はそんな音しない」
「でもみんな、“キュンとした”で通じるじゃん」
「まあ、通じるな」
「つまり心臓は、実はちょっとだけ漫画。」
「意味がわからない」
春はけろっとした顔で続けた。
「だって、“ドクン”も“キュン”も、“ズーン”もあるんだよ? 感情のたびに効果音ついてる」
「心臓を週刊誌みたいに言うな」
「悠はどっちかというと“スン……”って感じだけど」
「オノマトペで人を表現するな」
「でも便利だよ。“スン”って、悠の八割説明できる」
「残り二割は?」
「たまに“フフッ”ってなる」
「そんなレア演出みたいに言うな」
春は声を上げて笑った。
その笑い方まで、「あはは」って文字が似合いそうだった。
商店街を抜ける風が、またふわっと通る。
春はその風に目を細めて、小さく言った。
「オノマトペって、たぶん人間が“うまく言えなかった気持ち”の残りなんだろうね」
「……急に綺麗に締めようとするな」
「えへへ」
「“えへへ”で全部流すな」
春は楽しそうに前を歩いていく。
その後ろ姿を見ながら、悠は思った。
たぶん春は、世界の説明が下手なんじゃない。
下手なまま楽しむのが、上手いのだ。
だから今日も、会話はずっと、くだらなくて。
少しだけ、心に残る。



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