「悠。ピアノって、“音の階段”だと思わない?」
放課後だった。
音楽室の窓から、夕方の光が床に長く伸びている。
誰もいない教室の真ん中で、春はグランドピアノを見つめていた。
「急に詩人みたいなこと言うな」
「だって見て。鍵盤、白と黒で交互になってるじゃん。完全に“人生のアップダウン”だよ」
「スケールのでかい見方するな」
春はピアノ椅子に座ると、人差し指でぽん、と鍵盤を押した。
澄んだ音が、静かな音楽室に広がる。
「なんかさ。ピアノの音って、“空気に落書きしてる感じ”するよね」
「その表現はちょっとわかるのが悔しい」
「でしょ?」
春は得意げだった。
しかし次の瞬間、鍵盤を両手で適当に叩いた。
ドガァン!!!!
「雑!!!!」
「今のは“月曜日の朝”」
「うるさい月曜だな」
「しかも一時間目が数学」
「情報量を増やすな」
春はケラケラ笑いながら、また適当に鍵盤を押す。
今度は低い音だった。
ボォン……。
「これは?」
「冷蔵庫を夜中に閉めた時の音」
「そんな限定的な効果音ある?」
「あるよ。なんか“はい今日終わりでーす”って感じするじゃん」
「共感を求める範囲が狭いんだよ」
春はふーん、と頬杖をついた。
「でもピアノって不思議だよね」
「何が」
「ドレミファソラシドって、たった七個しかないのに、曲は無限にある」
「まあ、組み合わせだからな」
「つまり人間も、“だいたい同じ部品”でできてるのに、全員性格違うんだよ」
「急に深い方向行ったな」
「だからたぶん、“変な人”って存在しないんだよ。みんな違う曲なだけ」
「お前はたぶんテンポが特殊」
「変拍子系女子?」
「聞いたことないジャンルだな」
春は満足そうにうなずくと、今度はちゃんと鍵盤を弾き始めた。
とはいえ、知っている曲を途中までしか弾けていない。
「そこまでしか弾けないのか?」
「うん。ピアノって、“思い出せそうで思い出せない”を繰り返す楽器だから」
「それお前だけじゃない?」
「でもさ、途中で止まると、“続きは自分で考えてください”って感じしてかっこよくない?」
「漫画の打ち切りみたいなこと言うな」
春は笑った。
そのまま、またぽーん、と単音を鳴らす。
「ねえ悠」
「ん?」
「ピアノって、“一人で弾くのに、部屋全体を巻き込む楽器”だよね」
「……ああ」
「ギターとかは“自分の近くで鳴ってる”感じだけど、ピアノって空間そのものが音になる」
春は鍵盤を見つめたまま言った。
「だから音楽室って、誰もいなくても“誰かいた感じ”するのかも」
夕方の風が、少しだけカーテンを揺らした。
さっき鳴った音が、まだ部屋のどこかに残っている気がした。
悠はしばらく黙ってから言う。
「……で、お前はなんで急にピアノの話してたんだよ」
「ん?」
春はきょとんとした顔をした。
「いや、理由あるだろ」
「音楽室の前通ったら、“入って〜”って感じしたから」
「店の呼び込みみたいに言うな」
「たぶんピアノ、寂しかったんだよ」
「鍵盤に感情を与えすぎなんだよお前は」
「でも悠」
春は真顔になった。
「ピアノって、“押したら返事くれる家具”だよ?」
「急に定義がおかしい」
「机とか、押しても無言じゃん」
「まあそうだけど」
「でもピアノは“ポーン♪”って返してくれる。めちゃくちゃフレンドリー」
「家具界の陽キャみたいに言うな」
春は満足そうにうなずいた。
それから最後に、ぽん、と小さく鍵盤を押す。
高い音がひとつだけ鳴った。
「……あ」
「どうした」
「今の音、“今日の帰り道ちょっといい感じになる音”だった」
「そんな効果ある?」
「あるよ。たぶん今、世界ちょっとだけ機嫌いい」
「便利な耳してるな……」
夕焼けが、白い鍵盤をオレンジ色に染めていた。
春はその光を見ながら、また楽しそうに笑った。



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