地下遺跡の最深部で、フェルミノは大きな宝箱を見つけた。
石造りの部屋の中央。金属の縁取り。いかにも高価な物が入っていそうな形だ。
案内役の若い盗賊は目を輝かせた。
「勇者様、宝箱です!」
「見ればわかります」
「開けましょう」
「開けません」
盗賊の手が空中で止まった。
「どうしてです?」
フェルミノは箱の周囲を一周した。
床には細い溝がある。蓋の蝶番は新しい。箱の前だけ埃が薄い。
「罠の可能性があります」
「それを調べるのが俺の仕事ですよ」
「調査料はいくらですか?」
「契約に含まれてます」
「罠を解除できなかった場合の治療費は?」
「そこまで考えて宝箱を諦める勇者、初めて見ました」
盗賊はしゃがみ、鍵穴をのぞいた。
「毒針はなし。爆発の魔法陣もなし。鍵は簡単です」
「箱型モンスターの可能性は?」
「蹴ってみます?」
「靴が傷みます」
盗賊は剣の鞘で箱を軽く叩いた。反応はない。
「普通の箱です」
「中身が普通とは限りません」
フェルミノは手帳を取り出す。
宝箱を開けた場合に得られるもの。
金貨、宝石、装備、回復薬、古代の資料。
失う可能性があるもの。
鍵開け道具の摩耗。罠による治療費。不要品を運ぶ労力。鑑定料。売却時の手数料。
「中身が空という可能性もあります」
「夢がないですね」
「夢は重量がないので助かります」
盗賊が鍵を外した。まだ蓋は開けない。
「ここまで無料です。あとは開けるだけ」
「開けた後が有料かもしれません」
「宝箱って普通、得するものですよ」
「誰が決めたのですか?」
「昔からです」
「昔の人の収支報告はありますか?」
盗賊は返事に困った。
フェルミノは荷物袋を量る。食料、回復薬、予備の布、討伐証明。すでに十分重い。
「仮に鉄の鎧が入っていた場合、運べません」
「着ればいい」
「今の装備より性能が低ければ、移動速度だけ下がります」
「宝石なら軽いですよ」
「盗賊に狙われます」
案内役の盗賊が自分を指した。
「俺がいますけど」
「今のところ、あなたは料金を払えば働く盗賊です」
「信用されてるのか、されてないのか」
部屋の奥で小さな音がした。石の隙間から風が抜けただけだった。
盗賊は宝箱の前に座り込む。

「開けないなら、ここまで来た意味がないですよ」
「遺跡の地図を完成させました。依頼は達成です」
「でも、宝箱ですよ?」

「箱は利益ではありません」
「中身を見ないと利益かどうかわからない」
「見たら持ち帰りたくなります」
フェルミノの答えに、盗賊は少し笑った。
「欲しくなるんですね」
「人間なので」
フェルミノは無表情のままだったが、箱から視線を外していない。
盗賊は気づいた。
「本当は開けたいんでしょう」
「非常に」
「じゃあ開けましょう」
「だから開けないのです」
彼女は手帳へ一行加えた。
『欲しい物が入っている期待』は、判断を甘くする。
「では条件を決めます。中身が軽く、今すぐ使えて、鑑定不要なら持ち帰る。それ以外は置いていく」
「やっと勇者らしくなってきた」
「開けるのはあなたです」
「そこは俺なんだ」
盗賊が慎重に蓋を持ち上げた。
中から白い煙が噴き出した。
二人は同時に後ろへ飛ぶ。煙はすぐに薄れ、部屋に甘い匂いが残った。
宝箱の中には、小さな瓶が一本だけ入っていた。
盗賊が鑑定用の眼鏡をかける。
「高級香水ですね。王都なら300ゴールド以上」
「鑑定料は?」
「今ので5ゴールド」
「容器は軽い。売却可能。持ち帰ります」
フェルミノが瓶へ手を伸ばすと、盗賊が箱の底を指した。
『持ち主に幸運を。なお、香りは三日間取れません』
フェルミノは手を止める。
すでに部屋中へ香りが広がっていた。黒いマントにも染みついている。
「使用済みですね」
「開けた瞬間に使いましたね」
「売値は下がりますか?」
「香水なし、匂いだけの商品を買う人はいないと思います」
フェルミノは空のようになった瓶を見つめた。
宝箱を開ける前の収支、0ゴールド。
開けた後の収支、鑑定料マイナス5ゴールド。
さらに、三日間続く甘い香り。
遺跡を出る途中、モンスターは遠くから二人に気づいた。
「隠密行動ができませんね」
「いい匂いの勇者なんて珍しいですよ」
「宿で消臭を頼む場合、追加料金はいくらでしょう」
「開けなければよかった?」
フェルミノは少しだけ考えた。
「いいえ」
盗賊が意外そうに見る。
「開けたい気持ちの価格が5ゴールドなら、今回は安かったです」
「人間らしいこと言いますね」
「ただし次は、煙が出た時点で蓋を閉めます」
「もう次の宝箱を開ける気なんだ」

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