指揮者は、音を出さずに一番目立つ

指揮者は、音を出さずに一番目立つの場面を描いた春と悠の表紙 春と悠シリーズ

放課後の音楽室から、同じ四小節が何度も聞こえていた。

文化祭に向けた合唱練習らしい。廊下を通りかかった春は、開いた扉の前で足を止めた。

教室の中では、クラスメイトがピアノに合わせて歌っている。前に立つ指揮者だけが、両手を動かしながら一音も出していなかった。

「ねぇ悠」

「静かにな」

「指揮者って、音を出してないのに一番目立つね」

「前に立って動いてるからな」

「歌ってない人が、歌の中心にいる」

「交通整理みたいに言うな」

指揮者の手が上がる。歌声が大きくなる。手が低くなると、声も少し小さくなった。

春は自分の手も同じように上げた。

「あれ、音量のリモコンかな」

「人間に赤外線はついてない」

「でも、手を上げたら大きくなったよ」

「みんなが見て合わせてるんだ」

「じゃあ指揮者は、全員の目で操作するリモコン?」

「余計に分かりにくくなった」

曲が止まった。指揮者が「入りをそろえよう」と言い、また腕を構える。

ピアノの前奏が終わる直前、指揮棒が小さく跳ねた。今度は全員の声がほとんど同時に始まった。

春は感心したようにうなずく。

「指揮者って、未来をちょっとだけ先にやってるんだね」

「未来?」

「みんなが歌う前に、次の動きを見せるでしょ」

「合図だからな」

「一秒先のネタバレ係だ」

「曲を知らない人には伝わらないけどな」

「じゃあ、知ってる人だけに通じる予告編」

「また予告編にするのか」

練習が休憩に入り、指揮者のクラスメイトが廊下へ出てきた。

春はすぐに聞いた。

「歌いたくならない?」

「なるよ。だから口を閉じるのが一番大変」

「指揮者にも禁止事項があるんだ」

「私が歌うと、前の列だけ私の声を聞いちゃうから」

クラスメイトは水を飲むと、音楽室へ戻っていった。

春は扉の中を見ながら言った。

「みんなに音を出してもらうために、自分は音を出さないんだね」

「前にいる人の声が一番近いからな」

「目立つ場所にいるのに、目立つ音は禁止」

「難しい役だろ」

練習が再開した。

音楽室の扉の外から、合唱と指揮者の動きを見学する制服姿の春と悠

今度は春も、指揮者の手をじっと見る。右手が拍を刻み、左手が歌声を持ち上げる。指揮者は全員より少し早く動き、全員より静かだった。

曲の最後、腕が止まる。

歌声も、ピアノも、同じ場所で消えた。

廊下まで急に静かになる。

「止める時まで合図なんだ」

「終わりがばらばらだと、締まらないからな」

春は指揮者のまねをして、片手を大きく振り下ろした。

ちょうどその時、廊下の向こうからチャイムが鳴った。

春は目を見開く。

「今の、私が止めた?」

「むしろ鳴らした」

「指揮者の才能あるかも」

「学校のチャイムを指揮に入れるな」

春はもう一度、廊下の時計へ向かって腕を構えた。

「次は下校時刻を少し遅くしてみる」

「時間はお前を見てないぞ」

音楽室では、また最初の四小節が始まった。

春の指揮だけは、誰にも見られないまま、時計より少し遅れていた。


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