夏休みの午後、春は悠の家の冷蔵庫を開けた。
「麦茶、ない」
「さっき俺が最後を飲んだ」
「作ってないの?」
「今から作る」
悠は冷蔵庫から空のポットを取り出し、麦茶のパックと水を入れた。
春が横からのぞき込む。
「何分?」
「冷えるまで一時間くらい」
「今、飲みたい」
「水ならある」
「麦茶がいい」
春は透明なポットを見つめた。水の中でパックがゆっくり沈み、薄い茶色が広がり始める。
「ねぇ悠」
「なに」
「麦茶って、夏の待ち時間だよね」
「飲み物だよ」
「入れた瞬間は水で、待つと夏になる」
「麦茶になるんだ」
春は冷蔵庫の前にしゃがみ込んだ。
「見てたら早くできるかな」
「冷蔵庫を開けてたら冷えない」
「じゃあ閉めて見守る」
「見えないだろ」
扉を閉めて30秒後、春はまた開けた。
「色が濃くなった」
「一時間は30秒じゃない」
「麦茶は進んでるよ」
「こっちの電気代も進んでる」
春は渋々リビングへ戻った。
テーブルの上には宿題の冊子がある。二人は数学の問題を開く。
春は一問解くたび、冷蔵庫を見る。
「まだ?」
「まだ」
「麦茶ができるまでに、何問解けると思う?」
「春なら三問」
「低くない?」
「今、五分で一問だ」
「じゃあ十二問できる」
「計算だけは合ってる」
春は急にやる気を出した。鉛筆を走らせ、四問目で止まる。
「難しい」
「まだ二問目だぞ」
「麦茶より私の方が進んでない」
「麦茶は入ってるだけだからな」
「ずるい。何もしないで完成に近づいてる」
「時間がやってくれるから」
春は冷蔵庫を見た。
「待つだけで完成する宿題もないかな」
「白紙のまま提出日になる」
「完成じゃなくて終了だね」
十分後、春はまたポットを確認した。色は十分に麦茶らしくなっている。
「もう飲めそう」
「まだぬるい」

「色は麦茶だよ」
「温度が夏だ」
「麦茶は夏の飲み物だから合ってる」
「冷たいのが飲みたいって言っただろ」
春はコップへ少し注いだ。一口飲み、難しい顔をする。
「麦茶だけど、なんか違う」
「ぬるいから」
「完成してるのに完成してない」
「だから待つんだよ」
春は麦茶をポットへ戻そうとして、悠に止められた。
「飲んだのは戻すな」
「じゃあこれは途中の麦茶として飲む」
春はぬるい一杯をゆっくり飲んだ。
「待てなかった味がする」
「ただのぬるい麦茶だ」
再び勉強を始める。蝉の声、扇風機の音、鉛筆が紙をこする音。
春はさっきより集中していた。
四十分後、悠が時計を見る。
「そろそろいいんじゃないか」
冷蔵庫から取り出したポットは、外側が少し曇っていた。コップへ注ぐと氷が軽い音を立てる。
春は一口飲み、目を細めた。
「これ」
「完成した?」
「夏休みの味」
「家の麦茶だよ」
「でも、待った分がおいしい」
「ぬるいのを先に飲んだからだろ」
春はコップを光に透かす。
「麦茶の中には、一時間入ってるんだね」
「水と麦の成分だ」
「入れて、待って、冷えて、やっと飲める。一時間を飲んでる」
「時間は飲めない」
「じゃあ、冷蔵庫が預かってくれてた?」
「そういうことにしておく」
二人は宿題へ戻った。春の冊子を見ると、問題は七問まで進んでいる。
「十二問できなかった」
「予想より多い」
「麦茶に負けた」
「麦茶は何問も解いてない」
春は残りを数えた。
「次の麦茶ができるまでには終わるかな」
「もう一本作る気か」
「今のは飲んだらなくなるから」
春は立ち上がり、もう一つの空のポットを探した。
悠が冷蔵庫を指す。
「その前に、今ある麦茶を冷蔵庫へ戻して」
「どうして?」
「また夏の温度になる」
春は慌ててポットを戻した。
「待ち時間が逃げるところだった」
「冷気だよ」
扉を閉める直前、春は中の麦茶に小さく言った。
「次に会う時まで、ちゃんと夏でいてね」
悠は扉を閉めた。
「それ以上夏になったら、またぬるくなるぞ」

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