夏休みの午後、春はコップいっぱいの氷に麦茶を注いだ。
からん、と涼しい音がした。
「悠、見て」
「何を」
「氷が麦茶を冷やしてる」
「見れば分かる」
「自分は溶けてるのに」
悠は宿題から顔を上げた。透明だった氷は、茶色い飲み物の中で角を丸くしている。
「役目だからな」
「氷って、飲み物の中で夏をやめるんだね」
「水になるだけだ」
春はコップを目の高さまで持ち上げた。
「冷たい自分を配って、普通の水になる」
「急に立派な話にするな」
「しかも最後は麦茶に混ざって、誰だったか分からなくなる」
「薄くなるから、だいたい分かる」
春は一口飲んだ。
「まだ濃い」
「今入れたばかりだろ」
テーブルの上には、二人分の数学の冊子が開かれている。扇風機がページの端を小さく揺らした。
五分後、春はコップを見る。
「小さくなった」
「その分、麦茶が冷えた」
「働くほど消えるんだ」
「氷だから」
「消しゴムみたい」
悠が鉛筆を止めた。
「前にも似た話をしてなかったか」
「消しゴムは間違いを食べる。氷は夏を食べる。担当が違うよ」
「何でも食べさせるな」
春は冷凍庫から新しい氷を一個持ってきた。皿へ置き、コップの氷と見比べる。
「こっちは休んでる氷」
「皿の上でも溶けてる」
「じゃあ、無職の氷」
「言い方」
二つの氷は同じように小さくなった。ただし、麦茶の中の氷は飲み物を冷やし、皿の氷は小さな水たまりを作った。
春は真剣な顔になる。
「どうせ溶けるなら、麦茶の中にいた方がいいね」
「テーブルを濡らさないからな」
「同じ時間でも、いた場所で意味が変わる」
「氷の進路相談みたいになってきた」
春は皿の氷もコップへ入れた。
「就職させた」
「麦茶業界に?」
「夏季限定採用」
コップの表面に細かな水滴が増えていく。春は指で一本の線を引いた。
「外側にも水が出てる」
「それは空気中の水分」
「氷が増えた?」
「増えてない。冷えたコップの周りで、水蒸気が水になった」
春はしばらく黙って水滴を見た。
「じゃあ氷は、自分が溶けながら、見えなかった水まで呼び出してるの?」
「理科っぽく言えば、まあ」
「すごい。夏をやめるだけじゃなくて、空気の隠しものも見つける」
「結露だよ」
「名前をつけると急に窓っぽい」
氷はさらに薄くなった。春がコップを傾けると、小さなかけらが縁に当たった。
「最後の一個」
「飲めば」
春は口をつけたが、氷だけを残した。
「見届ける」
「宿題を見届けてくれ」
「宿題は待っても溶けない」
「締め切りは近づく」
二人は問題へ戻った。蝉の声の向こうで、時計の秒針が進む。
しばらくして、春がコップをのぞいた。
氷はもうなかった。
「いなくなった」
「水になった」
「どこにいるか分かる?」
「麦茶の中」
「でも、ここが元氷ですって場所はないよ」
悠は春のコップを指で押した。
「飲めば全部同じだろ」
春は麦茶を飲み干した。少しだけ薄く、よく冷えていた。
「氷、ちゃんといたね」
「味が薄くなったから?」
「冷たかったから」
「それなら仕事は終わったな」
春は空のコップを窓の光へ透かした。
「終わったのに、冷たさだけ残ってる」
「すぐぬるくなる」
「じゃあ、残ってるうちに覚えておく」
悠は新しい問題を開いた。
「何を?」
「夏をやめた氷が、ここにいたこと」
「次は少なめに入れろよ。麦茶が薄くなる」
春はうなずき、すぐに首をかしげた。
「でも、薄くなった分だけ氷が混ざったなら、これは半分くらい元氷?」
「計算問題にするなら、宿題のあとで」
春は冊子へ戻った。
「氷より先に、夏休みが溶けそう」
「それは本当に戻らないから急げ」
春は鉛筆を持ち直した。さっきまで白かった解答欄が、一問ずつ文字で埋まっていく。
「宿題も、時間を使って形を変えてるね」
「氷と違って、使った時間が見える」
「じゃあ今日は、夏休みを答えに変える日」
「先にそう思ってくれれば、麦茶二杯分は進んでた」

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