朝八時、春は悠の家の前で空を見上げた。
姿は見えないのに、セミの声だけが降ってくる。
「悠」
「なに」
「セミって、返事が早いよね」
「誰に?」
「夏に」
悠は玄関の鍵を閉めた。
「夏が何か聞いたのか」
「『今年も来た?』って」
「それで全員が鳴いてる?」
「うん。セミの声は、夏の既読」
「既読は返事じゃないだろ」
二人は図書館へ向かって歩き出した。宿題を涼しい場所で進める予定だった。
街路樹を一本通り過ぎるたび、鳴き声の位置が変わる。
「今の木、すごく既読がついてる」
「通知が多すぎるな」
「一匹が鳴くと、みんな返すよね」
「張り合ってるんじゃないか」
春は足を止めた。
「セミ同士のグループチャット?」
「音量を下げてほしい」
「でも、一匹だけだったら寂しいよ」
「一匹でも十分うるさい」
公園を横切ると、急に声が近くなった。春は木の幹を探す。
「いた」
茶色いセミが、目の高さより少し上に止まっている。
「あんな小さいのに、この音?」
「たぶん」
「自分の体より大きい声だね」
「声に大きさはない」
「じゃあ、自分より遠くまで届く声」
春が近づくと、セミは鳴きやんだ。
「未読になった」
「警戒されただけだ」
二人が数歩離れると、また鳴き始めた。
「既読ついた」
「便利な解釈だな」
図書館に着くころには、二人とも少し汗をかいていた。自動ドアが開き、冷たい空気に包まれる。
中ではセミの声が遠くなる。
春は席へ座り、窓の外を見た。
「ガラス一枚で、夏が小さくなった」
「静かでいい」
「聞こえなくても、鳴いてるんだよね」
「外はな」
「既読を隠してるみたい」
悠は宿題を開いた。
「春も問題集を既読にしてないで、返事を書け」
「これは返信が難しい」
「答えを書くだけだ」
一時間後、春は十問目で鉛筆を置いた。窓の向こうでは木の葉が揺れている。声はかすかにしか聞こえない。
「ねぇ悠。セミは、誰も聞いてなくても鳴くのかな」
「人に聞かせてるわけじゃないから

「返事がなくても?」
「仲間には届いてるんじゃないか」
春は自分のスマートフォンを見た。昨日送った「明日、図書館行く?」というメッセージには、悠の短い「行く」が残っている。
「悠は返事が短いね」
「来たんだから十分だろ」
「セミならもっと長く返す」
「セミと待ち合わせろ」
「図書館に入れないよ」
昼になり、二人は外のベンチでおにぎりを食べた。扉が閉まった途端、音が一斉に戻ってくる。
春は少し笑った。
「ずっと返事してた」
「ずっと鳴いてた」
「こっちが聞いてなかっただけなんだね」
悠はペットボトルの水を飲んだ。
「聞かれてなくても続けるのは、返事なのか?」
「じゃあ、確認」
「何の?」
「夏がちゃんとここにいる確認」
「暑さで分かる」
「暑さは通知。セミは既読」
「分ける必要ある?」
「通知だけだと、夏が一方的に送ってきてるみたいじゃん」
春は木々を見上げた。
「セミが返すから、会話になる」
その瞬間、すぐ近くから大きな声が響いた。悠が少し肩を揺らす。
「びっくりした」
「悠も既読ついたね」
「今のは着信だ」
午後、宿題を終えて図書館を出ると、朝より日差しが傾いていた。それでもセミは鳴いている。
「夏って、返事が多いね」
「春もな」
「私、セミくらい話す?」
「静かな場所に入ると少し小さくなるところも似てる」
春はしばらく黙った。
三歩だけだった。
「じゃあ悠は?」
「何が」
「夏に何て返す?」
悠は額の汗をぬぐった。
「暑い」
「それ、苦情だよ」
「返事ではある」
木の上から、重なる鳴き声が降ってくる。
春は空へ向かって小さく手を振った。
「聞こえてるよ」
セミは変わらず鳴き続けた。
「返事は?」
「今の全部」
悠は歩きながら言った。
「都合のいい既読だな」
「でも、返ってこないより夏っぽいでしょ」
悠が返事をする前に、木の上からまた大きな声が届いた。
「ほら、先に返された」
「俺の返事まで取るなよ」

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