「図鑑って、“世界のネタバレ本”じゃない?」

日常の不思議

「図鑑ってさ」

 帰り道、春が急に立ち止まった。

「“世界のネタバレ本”だよね」

「急にスケールがでかいな」

 悠は自転車を押しながらため息をつく。

「だって見てよ。“カブトムシは夜行性です”とか、“ペンギンは飛べません”とか書いてるんだよ?」

「うん。知識だからな」

「人生で本来びっくりするはずのことを、先に全部教えてる」

「図鑑をなんだと思ってるんだ」

 春は真面目な顔で続ける。

「たとえば初めてペンギン見た人、本当なら“鳥なのに飛ばない!? 設定ミス!?”ってなるはずじゃん」

「ゲームのバグみたいに言うな」

「でも図鑑読んでると、“あーはいはい、飛ばない鳥ね”ってなる」

「事前知識の弊害ではあるな」

「もったいないよね」

 春は空を見上げた。

「世界って、本当はもっと“うわっ”で溢れてると思うんだ」

「……まあ、それはちょっとわかる」

「だから私は図鑑読む時、“知らないフリ”してる」

「無理だろ」

「“へぇ〜! クラゲって毒あるんだ〜!”って」

「知ってる顔して言うな」

「あと“ハチドリって後ろ向きに飛べるんだ〜!”って毎回感動してる」

「それはもう感動をリサイクルしてるだけだろ」

 春は少し考えてから言った。

「でもさ、一回知ったからって感動終わるの、寂しくない?」

 夕方の風が、制服の袖を揺らした。

「毎年桜見ても“また咲いてる”って思うし、夕焼けも毎日あるのに写真撮る人いるじゃん」

「まあな」

「だから図鑑も、“知ってる”じゃなくて、“今日もすごい”で読めばいいんだよ」

「図鑑への向き合い方が宗教なんだよな、お前」

「“動物感謝教”」

「絶対入りたくない」

「入会特典でダンゴムシ触れるよ」

「嫌すぎる特典だな」

 春は笑いながら、鞄をごそごそ漁った。

「あ、そうだ」

「なんだよ」

「昨日、図鑑読んでて気づいたんだけど」

「また変なこと言う前振りだな」

「ナマケモノって、一日に二十時間寝るんだって」

「有名だな」

「つまり、“寝すぎ”っていう概念、人間側の価値観なんだよ」

「また始まった」

「ナマケモノ界では、私たちめちゃくちゃ働き者だよ」

「比較対象がおかしい」

「“今日も四時間しか寝てない……”って落ち込んでるナマケモノいたら、たぶん病院連れてかれる」

「そんな社会嫌だな」

「“最近あいつ頑張りすぎじゃない?”って心配される」

「努力が不健康扱いされる世界か」

 春は満足そうに頷いた。

「だから人間も、もうちょっと“生き物としての自分”を信じていいと思う」

「急にそれっぽいこと言うな」

「図鑑って、そういうの教えてくれるから好き」

「お前の図鑑、たぶん普通の人より変な読み方してるよ」

「えへへ」

 春は笑って、また歩き出す。

 数歩進んでから、ふと思い出したように振り返った。

「あ、でも一番好きなのは深海魚図鑑」

「なんで?」

「“こんな見た目でも生きてていいんだ”って安心するから」

「深海魚に自己肯定感を委ねるな」

「でも深海、めちゃくちゃ自由そうじゃない?」

「まあ、見た目のルールは崩壊してるな」

「うん。だから好き」

 春は夕焼けの空を見ながら、当たり前みたいに言う。

「世界って、“変”に優しいんだよ、たぶん」

 悠は少しだけ黙ったあと、小さく笑った。

「……お前、図鑑の読み方だけで人生肯定してくるのずるいな」

「え?」

「なんでもない」

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