「あくびのタイミング」

日常の不思議

「ねえ悠。あくびってさ、体の“再起動”らしいよ」

 放課後の教室で、春は窓際に突っ伏したまま言った。

「絶対違う情報源から仕入れてるだろ、その知識」

「でも実際、あくびしたあとってちょっとスッキリしない?」

「それは眠気をごまかされてるだけだ」

 春は「ふーん」と言って、また大きなあくびをした。

 つられる。

 つられたくないと思った瞬間につられる。

 人類の敗北みたいな現象だ。

「……ほら。悠も再起動した」

「違う。感染しただけ」

「感染って言い方すると、あくび側に意思あるみたいじゃん」

「あるだろ。絶対こっち見てる」

 春は机に頬を乗せたまま笑う。

 西日が教室の床をオレンジ色にしていた。

 部活の声が遠くから聞こえる。

 静かな教室で、春だけがずっと楽しそうだった。

「でもさー、あくびって平和な現象だよね」

「なんで」

「怒りながらあくびしてる人、あんまりいない」

「いや、いるだろ。授業中にキレながら眠そうなやつ」

「でも“めちゃくちゃ幸せなあくび”ってあるじゃん」

「何その限定イベントみたいなの」

「猫とかしてる」

「あー……それは分かる」

 春は満足そうにうなずいた。

「猫って、“今日もうまく生きたなー”みたいな顔であくびするよね」

「考えたことなかったな」

「人間ももっと“生きた感”であくびした方がいいのかも」

「どういうことだよ」

「“疲れた”じゃなくて、“今日も頑張って疲れた〜”って感じ」

「言い換えで全部なんとかしようとするな」

「でも、ちょっと違わない?」

 春は窓の外を見た。

 風でカーテンが揺れる。

「同じ眠いでも、“最悪”って思いながら眠いのと、“今日はいっぱい動いたな”って眠いの、なんか違うじゃん」

「……まあ」

「だから私は、あくび好き」

「急に着地したな」

「あと、あくびって無防備でかわいい」

「それは人による」

「悠は口ちっちゃいあくびするよね」

「観察すんな」

「“あ、今ちょっとだけ開きました”みたいな」

「自動ドアじゃないんだよ」

 春は吹き出した。

「悠のあくび、節約モード感ある」

「そんなところでエコ発揮したくない」

「でも、豪快なあくびってちょっと憧れるなー」

「なんで」

「人生に遠慮してない感じする」

「お前、全部人生に繋げるな」

「逆に悠は遠慮しすぎなんだよ」

「してない」

「してる。“こんなことで笑ったら変かな”とか考えてる顔してる時あるし」

「……」

「でも人って、あくびしてる時はちょっとだけ隙があるから好き」

 春はまた小さくあくびをした。

 今度は猫みたいだった。

「たぶん、“ちゃんと疲れた”って証拠だからかな」

「……お前さ」

「ん?」

「たまに、それっぽいこと言うよな」

「たまに?」

「九割くらい変なこと言ってる」

「じゃあ一割の当たりを大事にして」

「ガチャかよ」

 春はけらけら笑ったあと、急に真顔になった。

「でも悠、さっきから三回あくびしてるよ」

「お前のせいだよ」

「違うよ。悠の体が“今日はちゃんと生きた”って言ってるんだよ」

「便利な解釈だな」

「ポジティブはだいたい便利」

 その言葉の直後。

 春がまた大きなあくびをした。

 つられて、僕もあくびをする。

 最悪だ。

 なのに春は、なぜか少し嬉しそうだった。

「ほら。また同期した」

「スマホみたいに言うな」

「幼馴染クラウド」

「絶対容量足りないだろ、そのクラウド」

 春は笑いながら鞄を持った。

 夕方の教室に、あくびの余韻だけが少し残る。

 たぶん明日も、こいつはどうでもいいことを楽しそうに話すんだろう。

 ……まあ、それも悪くない。

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