夏休みの午後、春は文房具店で一冊のノートを買った。
淡い水色の表紙。角はまっすぐで、ページにはまだ一度も折り目がない。
店を出て十分後、俺たちは図書館の机に座った。
春はノートを開いたまま、何も書かない。
「宿題するんじゃなかったのか」
「するよ」
「五分前から日付も書いてないぞ」
春は真っ白な一ページ目を見つめた。
「新品のノートって、最初の一文字が重いよね」
「ペンの重さは変わらない」
「最初に変な字を書いたら、このノートはずっと変な字から始まるんだよ」
「二文字目から直せ」
「でも第一印象ってあるでしょ」
「ノートはお前を面接しない」
春はペン先を紙へ近づけ、また離した。
「一ページ目だけ、鉛筆にしようかな」
「消せるから?」
「ノートと仮契約」
「二ページ目で本採用か」
「字が合わなかったら、お互いのために」
「合わないのは自分の字だろ」
隣の席の小学生が、買ったばかりらしいドリルへ大きく名前を書いた。少し曲がっていたが、本人は気にせず次のページを開く。
春はその手元を見た。
「勇気あるね」
「名前を書いただけだ」
「新品に最初の傷をつけた」
「傷じゃなくて使用開始だ」
春はノートの右上へ、小さく日付を書いた。
「書けたじゃないか」
「日付は私の意見じゃないから」
「一文字目は数字だけどな」
次に「数学」と書こうとして、「数」の上が少しつぶれた。
春の手が止まる。
「終わった」

「始まったところだ」
「一ページ目で失敗した」
「読める」
「でも理想の『数』じゃない」
「理想の数って何だよ」
春は修正テープを取り出した。俺はその手を止める。
「消した跡の方が目立つぞ」
「じゃあ、この字を基準にする」
「急に目標を下げたな」
「違うよ。ノートの方が私に合わせてくれたの」
「紙は何もしてない」
春は二行目を書いた。今度の字は少し右へ傾いた。三行目は小さく、四行目は急いで大きくなった。
五分後、一ページ目には計算式と消し跡と、途中で描いた小さな扇風機が並んでいた。
「もう緊張してないな」
「仲良くなったから」
「ずいぶん雑な付き合いになった」
春はページをめくった。二ページ目も真っ白だった。
またペンが止まる。
「二ページ目の最初の一文字も重い」
「毎ページやる気か」
「でも一ページ目よりは軽いよ」
春は迷わず問題番号を書いた。今度は少し曲がったが、そのまま続ける。
新品のノートがきれいなのは、まだ何も起きていないからだ。
書き間違いも、消し跡も、端に描いた落書きも増えていく。
たぶんノートは、きれいなままでいるためではなく、持ち主の途中経過で汚れていくためにある。
帰る頃、春は使いかけのノートを鞄へ入れた。
「もう新品じゃないね」
「残念か?」
「ううん。やっと私のになった」
表紙の角には、机へ置いた時についた小さな折れ目があった。
春はそれを直さず、少し嬉しそうに鞄のファスナーを閉めた。

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