夏休みの午後、俺と春は図書館からの帰り道に、小さな横断歩道で止まった。
車はほとんど通らないのに、歩行者用の信号は赤い。
春は信号の横にある黄色い箱を見つけた。
「押しボタン式だ」
「押さないとずっと赤だぞ」
春はボタンの前に立ったまま、押さない。
「ねぇ悠。これ、青信号へのお願いなんだね」
「申請だろ」
「『渡ってもいいですか』って聞いてるんでしょ」
「機械には、もっと短く伝わってる」
「何て?」
「人がいる」
春は少し考えてから、ボタンを一度押した。
赤い文字で「おまちください」が光る。
「丁寧だ」
「何が」
「お願いしたら、ちゃんと返事してくれた」
「まだ待てって言われただけだぞ」
「既読がついた感じ」
「信号に既読機能を足すな」
春は黄色い箱に顔を近づけた。
「でも、待ってくださいって言うなら、理由も教えてほしいよね」
「車の信号が青だからだろ」
「『今、車の番です』とか」
「文字数が増える」
「『あと十二秒です』とか」
「急に電子レンジっぽくなるな」
遠くから一台の軽トラックが近づいてきた。俺たちの前を通り過ぎると、道路はまた静かになる。
春は信号を見上げた。
「もう車いないよ」
「見えないところから来るかもしれない」
「信号って、心配性なんだね」
「お前が楽観的すぎる」
春はもう一度ボタンへ指を伸ばした。
「二回押したら、お願いが強くなるかな」
「ならない」
「三回なら急いでる人」
「一回で十分」
「長押しは?」
「信号を困らせるな」
春は指を引っ込めた。
「お願いって、何回も言うと命令になるもんね」
「今日は妙にまともだな」

「じゃあ、一回だけで待つ」
「最初からそうしてくれ」
蝉の声の向こうで、車道の信号が黄色に変わった。やがて赤になり、俺たちの前の人型が青く光る。
「通った」
春は少し嬉しそうに横断歩道へ出た。
「お願いが?」
「申請が」
「でも、お願いしたのは私だよ」
「処理したのは信号だ」
横断歩道の真ん中で、青信号が点滅を始めた。
春が足を速める。
「急に態度が変わった」
「渡り終われってことだ」
「さっきまで丁寧だったのに」
「締め切り前は誰でもこうなる」
二人で向こう側へ渡りきると、信号は赤に戻った。
春は振り返り、黄色い箱を眺める。
「次の人が来るまで、また赤なんだね」
「必要なときだけ青になるからな」
「誰にもお願いされない時間、寂しくないのかな」
「信号は休んでると思うぞ」
「ずっと道路を見てるのに?」
「仕事中ではある」
春は少し先の自動販売機まで歩き、冷たい麦茶を一本買った。
「悠も飲む?」
「それ、お願い?」
「確認」
「じゃあ、飲む」
春は麦茶を渡しながら笑った。
「人間にも押しボタンがあれば楽なのにね」
「何のボタンだよ」
「話しかけてもいいですか、とか。今はそっとしておいてください、とか」
「お前は表示を見ずに押しそうだな」
「一回だけならいいでしょ」
「一回で命令になるボタンもある」
春は麦茶のふたを開けた。
「じゃあ、言葉のままでいいや。返事が来るまで少し時間がかかっても」
信号はもう赤く、黄色い箱の「おまちください」も消えていた。
お願いは、押した瞬間に叶うわけではない。
それでも一度届けば、世界のどこかで、ちゃんと順番が動き始めるらしい。

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